不寛容社会も問題だけど、寛容すぎるのも考えもの?

この世は絶妙なバランスで成り立っているけれど、しかし成り立っていないとも思う。

高い所にいる人もいれば、低い所にいる人もいて、高い所がいいかといえばそうでもなく、低い所が良くないかといえば、確かにそうであったり、実はそうでも無かったり。

不寛容な社会になったかと思えば、突然、寛容であることが正しいという風潮になったりするもので。

どちらが正しいわけでも無く、でも不寛容社会で苦しんでいる人は多い。
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中間がいいわけでも無いけれど、もしも中間がバランスがとれていて心地がいいなら中間にいられればと思う一方で、そういう人が多い社会では、その中間から外れることがタブーとなり不寛容社会が出来上がる。。。

極端な場所に居ることが心地いい人たちは、その場所で不寛容社会に苦しむ。。。

じゃぁどうなったら幸せなのか。

結局は他と比べずに自分が心地いい場所に居ることが幸せ。

でもそれが出来るのはごく一部。。。

さらに、ここには別の問題も。

寛容か不寛容かが、官(聖)によってコントロールされることは、社会の色が一瞬にして変わってしまうことも。

官(聖)レベルで「不寛容社会を問題視」する時、社会の、特に「新しい大きな動き」に対して寛容を求めてはいないだろうか。

最近で言えば  “騒音か否か問題” や有名人の不祥事問題。従来からある問題では例えばマイノリティーや日本在住外国人、特別なもの、異質なもの、新しいものなどに対する極端な対応などを官(聖)が社会問題として取り上げることによって、民(俗)内で寛容の風潮が生まれる。一方で、官(聖)の進める大きな変革に対して民(俗)が寛容になっていく “かもしれない” 。
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そしてまたその変化に善悪をあてはめるのも正しいのか正しくないのか悩むところ。何故なら官は、民に対して公にできないような問題を抱えているかもしれないから。

しかし私たちが民(俗)レベルで考えることをやめないことは、社会のバランスを保つ上で大切なのかもしれない。

ところで、もともと無関心と言われている層に対して、安易に「関心を持つこと」をさせた場合、新しいものや、大多数の流れ、その時の風潮に同調する事が多いと思う。彼らに対して突然意見や方向性を求めることもまた良いとは言えないのかも。

何かの時に鍵を握っているのが無関心と言われている層。

中には無関心と思わせておいて実はいつも深く考えている人も。

実は、そんな人が世界を救うのかもしれない。

このブログはバランスについて書いています。ジム





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